三十五
百 人 一 首 ・ 三 十 五 番 紀貫之
人はいさ 心もしらず ふるさとは
花ぞ昔の 香ににほひけるひとはいさ こゝろもしらず ふるさとは
はなぞむかしの かににほひける
いまのことば
あなたの心は、さあ、どうだか分かりません。
けれども昔馴染みのこの里では、
梅の花が昔のままの香りで咲いていますよ。
ことばの景色
『古今和歌集』の前書きが、この歌の場面をそのまま教えてくれます——初瀬(長谷寺)へ参るたびに泊めてもらっていた家に、久しぶりに寄ったところ、その家の主人が「宿はちゃんとありますよ」と皮肉を言った。そこで貫之が、そばの梅を折って返したのがこの一首です。
つまりこれは即興の切り返し。「人の心は変わるかもしれないが、花の香りは変わらない」——責めているようで、責めていない。角を立てずに言い返す技が、三十一文字に収まっています。
作者の紀貫之は、『古今和歌集』を編んだ四人の中心であり、仮名序(かな書きの序文)を書いた人です。二十九番の躬恒、三十番の忠岑とあわせて、撰者四人のうち三人が百人一首に入っています。
考えてみよう
- 問一久しぶりに会った人に、角を立てずに言い返すとしたら、何と言いますか。
- 問二変わらないもの・変わるもの。身のまわりから三つずつ挙げてみましょう。
- 問三梅の香りを実際にかいで、ことばで表してみましょう。
答えはひとつではありません。声に出して、外に出て、確かめながらどうぞ。
豆知識——香りは、記憶を呼び戻す力が強いといわれます。千年前の歌人も、同じことに気づいていました。見た目ではなく香りを持ち出したのが、この歌の勝因です。