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東海道・川崎宿

かつてここには、江戸の三大橋のひとつが架かっていました。広重が描いたのは、その橋が去ったあとの川——六郷ろくごうの渡しです。

お子さんと保護者の方へ。東海道・川崎宿を、いっしょに確かめましょう。

いまのことば

東海道の川崎宿とは?

川崎かわさきは東海道の二番目の宿場。
多摩川の下流「六郷ろくごう川」を、旅人は舟で渡わたった。

橋と川の二百年

慶長けいちょう五年(一六〇〇年)、徳川家康とくがわいえやすは六郷ろくごうに大橋を架けさせました。千住大橋せんじゅおおはし・両国橋りょうごくばしとならぶ江戸の三大橋です。ところが貞享じょうきょう五年(一六八八年)の洪水こうずいで流されたあと、橋は再建さいけんされませんでした。かわりに置かれたのが「六郷ろくごうの渡し」——広重が描いたのは、この舟です。

橋がなければ、川はそのまま関所の働きをします。増水ぞうすいすれば舟は出ない。旅人は宿に足止めされ、宿場は潤うるおい、そのぶん先の予定は動く。渡わたし場は、川の機嫌きげんで経済けいざいが動く場所でした。橋のない大河という点では、大井川の川留かわどめと同じ仕組しくみです。

川崎かわさきは、はじめから宿場だったわけではありません。品川しながわと神奈川かながわの間あいだが長く、両宿の負担ふたんが重くなったため、元和げんな九年(一六二三年)に幕府ばくふが川崎かわさき宿の設置せっちを命じました。できたあとも伝馬てんまの負担ふたんは重く、宿の役人が幕府ばくふへ窮状きゅうじょうを訴うったえ出たこともあります。

それでも川崎かわさきには強みがありました。川崎かわさき大師だいしへの参詣道さんけいみちが分かれる場所だったことです。街道の旅人と参詣さんけいの客が重かさなる角かどに立った茶屋ちゃや「万年屋まんねんや」は、本陣ほんじんをしのぐと言われるほど栄さかえました。道が交わる場所に、商いは立つ。

考えてみよう

  • 問一あなたの町の川に橋がなかったら、どこをどう渡わたりますか。地図で考えてみましょう。
  • 問二橋と渡わたし舟。それぞれの利点りてんと不便を、ならべて書き出してみましょう。
  • 問三「橋を架け直なおさなかった」理由を、いくつ思いつきますか。

答えはひとつではありません。声に出して、外に出て、確かめながらどうぞ。

豆知識——六郷ろくごうにふたたび橋が架かるのは明治に入ってからです。一八七四年(明治七年)、地元の人が私費しひで木の橋を架けましたが、四年後の洪水こうずいで流されました。その後も架かけては流され、架かけては流され——いまの六郷ろくごう橋は、その何代なんだいも後あとの姿すがたです。
原文について
この記事が扱っている『東海道五十三次』は、江戸時代の五街道のひとつ。宿場や道中の様子は、当時の道中記や名所図会に記録されています。
原本(江戸期などの版本)は、国立公文書館 デジタルアーカイブ『東海道名所図会』で画像を見られます。
このページの現代語訳・解説・設問は、株式会社士心が作成したものです。特定の校訂本にもとづくものではありません。 表記や区切り方は、読みやすさのために整えています。原文にあたるときは、上の所蔵先でお確かめください。

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