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軸 3 / 私をめぐる問い

私とは何か

「私」って、いったい何だろう?
変わらない「私」は、いるのかな?

世界の宗教や考え方は、この問いに、ずいぶんちがう答えを出してきました。どれが正しいかは決めません。まず6つ、読み比べてみましょう。

01

答えは、大きく分かれます

下の図は、このあと読む6つの答えの置き場所の目安です。縦と横、2つのものさしで見ています。

← 変わらない私は、無い 変わらない私が、在る → 一人で成り立つ 関係のなかで成り立つ ヴェーダーンタ プラトン 上座部仏教 唯物論・無神論 儒教 ハイデガー

置き場所は、各立場の答え(下の文)に書いてあることから置いた目安で、正しさの順位ではありません。真ん中は、答えの文が、そのものさしのどちらにも寄っていない(または触れていない)ことを表します。ほかの立場を置けば、また別の図になります。

02

まず、6つの答えを読んでみよう

答えがはっきり違う6つを選びました。文はどれも、その立場を大切にする人のことばで書いてあります。

ヒンドゥー教(ヴェーダーンタ)

真の自己は変わらず、世界の根本と一つであるとされる。日常で私と思われているものは、その上に重ねられた覆いとされる。

出典:『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』6章8節7

プラトン

私とは魂であり、身体はそれが宿る器とされる。魂は身体より先にあり、身体が滅びても滅びないと論じられる。

出典:プラトン『パイドン』

仏教・上座部

変わらない自己は無い。私と呼ばれているのは、絶えず生じては滅びていく要素の集まりにすぎないと説かれる。

出典:『無我相経』相応部22.59

儒教

私は関係のなかで定まる。父子・君臣・友といった結び目のどこに立つかによって、なすべきことが決まるとされる。

出典:『論語』顔淵篇 第11章/『孟子』滕文公上(五倫)

ハイデガー

私を実体としてではなく、世界のなかで何かに関わりながら在ること、そのはたらきそのものとして捉え直している。

出典:ハイデガー『存在と時間』第12〜13節(世界内存在)

唯物論・無神論

私は身体のはたらきであり、それ以外の何かではないとされる。身体が終われば私も終わる、という位置に立つ。

出典:ラッセル『宗教は必要か』第4編「死後も生存するか」(大竹勝訳・荒地出版社)

考えてみよう

  1. あなたの答えに、いちばん近いのはどれでしょう。どこが近いと感じましたか。
  2. どれか2つの立場が話し合ったら、どこでぶつかるでしょう。どこなら「そうだね」と言い合えそうでしょう。
  3. 図の横の線では「変わらない私は、無い」と「変わらない私が、在る」の、どちらに近いですか。縦の線では「一人で成り立つ」と「関係のなかで成り立つ」の、どちらでしょう。
03

ほかの立場も読む

同じ名前の宗教でも、この問いでは答えが割れます。割れているところまで降りて書きます。割れていないところは割りません。一つの答えは六十字前後にそろえてあり、資料の多い立場ほど長くなることがないようにしています。

残りの36の立場を開く(全42立場・出典つき)
インドに始まる系統
ヒンドゥー教
(サーンキヤ)
見る者としての純粋な精神と、見られる物質とを分ける。私と思われているものの大半は、物質の側に属するとされる。出典:イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』(4〜5世紀)
ヒンドゥー教
(信愛の道)
私は神に属する部分であり、神との関わりのなかで初めて自分になるとされる。独立した個としては置かれていない。出典:『バガヴァッド・ギーター』
ジャイナ教
魂は本来、知る力と安らぎを備えているとされる。業の物質に覆われているだけで、取り除けば本来の姿が現れる。出典:ウマースヴァーティ『タットヴァールタ・スートラ』(2世紀)
仏教・説一切有部
自己は認めないが、それを構成する要素のほうは実在するとした。私は無くても要素は在る、という位置に立つ。出典:世親『阿毘達磨倶舎論』破我品
仏教・犢子部とくしぶ
要素と同じでも別でもない人格を立てた。無いとも在るとも言い切らないところに私を置こうとした試みである。出典:『倶舎論』破我品に引かれた説
仏教・唯識
外の世界も私も、深層の識の現れとされる。私という感覚は、その深層を自分だと思い誤るはたらきから生じる。出典:世親『唯識三十頌』(玄奘訳)/護法釈『成唯識論』
仏教・浄土教
自力では立ちゆかず、はからいを離れられない者として自分を見る。そこから、仏に委ねる道が説かれていく。出典:親鸞『教行信証』/唯円編『歎異抄』第三条
仏教・禅(道元)
自己を習うとは自己を忘れることだとされる。私を突き詰めた先に、私が抜け落ちるという形で語られている。出典:道元『正法眼蔵』現成公案
仏教・チベット
心の本性は明るく澄んだものとされる。日常の私は、その上を流れていく雲のようなものとして説かれてきた。出典:第三代カルマパ『了義大印祈願文』/増支部 AN 1.49〜52
シク教
私は神の光を分かち持つとされる。自我へのとらわれが、そのことを見えなくしていると繰り返し説かれている。出典:『グル・グラント・サーヒブ』
中国に始まる系統
道教(荘子)
私と他のものとの境そのものを疑う。夢で蝶になった話は、どちらが本当かを決められないところに置かれている。出典:『荘子』斉物論篇(胡蝶の夢)
日本
神道(古典神話)
私とは何かを主題として論じない。いのちは神々と祖先から連なるものとして受けとめられ、定義は置かれない。出典:『古事記』上巻
神道(祖霊の観念)
個としての私は年月をかけて薄れていき、祖霊という大きなまとまりに溶けていくものとして受けとめられてきた。出典:柳田国男『先祖の話』1946年
西アジアに始まる一神教
ユダヤ教
(ラビの伝統)
私は神に造られた一人であり、名を呼ばれる相手として立つ。身体から切り離された魂としては描かれていない。出典:創世記/ミシュナ(200年頃)/バビロニア・タルムード
ユダヤ教
(カバラー)
魂は段階に分かれ、上の段ほど神に近いとされる。私は、その階梯のどこまでが開いているかとして語られる。出典:『ゾーハル』I 81a(ネフェシュ・ルアハ・ネシャマー)
キリスト教
(カトリック)
人は身体と魂からなる一つの存在とされる。魂だけが本当の私だとはされず、終わりの日に身体を伴って復活する。出典:『カトリック教会のカテキズム』362〜365・990
キリスト教
(正教)
人は神に似せて造られ、神に似た者へと変えられていく途上にあるとされる。私は完成した何かではなく、過程である。出典:新約聖書/アタナシオス/グレゴリオス・パラマス(神化)
キリスト教
(プロテスタント)
私は神の前に立つ一人であり、その関係のうちで定まる。仲介を置かず、直接に問われる相手として立たされる。出典:新約聖書/カルヴァン『キリスト教綱要』1536年
イスラム教
(スンナ派)
私は神に創られた僕であり、預けられた命をいつか返す者とされる。自らを主とすることは、強く戒められる。出典:クルアーン 51:56
イスラム教
(シーア派)
基本の枠組みはスンナ派と共有する。加えて、導き手との結びつきが、自分が何者かを定める要素として置かれる。出典:クルアーン/クライニー『アル・カーフィー』(10世紀)
イスラム教
(スーフィズム)
自我が消え去り、神だけが残る状態が目指される。私が無くなることそのものが、道の到達点として語られている。出典:ガザーリー『宗教諸学の再興』(ファナー)
ギリシアに始まる哲学
エピクロス
私は原子の集まりであり、散れば残らない。だからこそ、いま感じている快と苦のほうが問題になるとされる。出典:エピクロス『メノイケウス宛書簡』
ストア派
自分の力の及ぶ範囲だけが、本当に私のものだとされる。それ以外は預かりものとして扱うことが説かれる。出典:エピクテトス『語録』3巻1章39〜40節(私とはプロハイレシス)/『自省録』
デカルト
疑っている自分が在ることだけは疑えないとした。私は、そこで考えているはたらきそのものとして立てられる。出典:デカルト『方法序説』第四部/『省察』第二省察
スピノザ
私は独立した実体ではなく、唯一の自然のあらわれの一つとされる。自由意志は、原因を知らないだけだとされる。出典:スピノザ『エチカ』第二部 定理13/第三部 定理2 備考
カント
経験される私と、経験を成り立たせている私とを分けた。後者のほうは、知られる対象にはならないとされる。出典:カント『純粋理性批判』B131〜132(超越論的統覚)
実存主義
(サルトル・カミュ)
私はあらかじめ決まっていない。人はまず存在し、そのあとで自分が何であるかを作っていくのだとされている。出典:サルトル『実存主義とは何か』1946年
心理学
ユング
意識の私のほかに、より広い層があるとした。個人の枠を越えて共有される層まで含めて、私が考えられている。出典:ユング『元型論』Ⅰ「集合的無意識の概念」(林道義訳・紀伊國屋書店)
フランクル
私は、意味を問われて答える主体として置かれる。何であるかよりも、何に応えるかによって定まるとされる。出典:フランクル『死と愛』第二章第一節「人生の意味」(霜山徳爾訳・みすず書房)
科学
神経科学
私という感覚は、脳の複数のはたらきが作り出す像として説明される。ただし主観が生じる理由は説明できていない。出典:チャーマーズ「意識の難問」1995年
進化生物学
私は、遺伝子が世代を越えて伝わっていく過程に現れる一個体として記述される。目的の形で語ることはしない。出典:フツイマとカークパトリック『Evolution』第5版 2022年
宇宙論
この問いを扱う枠組みを持たない。物質とエネルギーの振る舞いを記述する理論であり、私を語る語彙が無い。出典:プランク共同研究『Planck 2018 results VI』2020年
量子力学
この問いに答えを持たない。観測者という語が出てくるが、それは装置を含む測定の側を指し、人の自己を指すのではない。出典:サクライとナポリターノ『Modern Quantum Mechanics』第3版 2020年 1章4節
現代の言説
神智学
人は複数の層からなるとされ、粗い層から精妙な層へと重なっている。本当の私は、上の層のほうに置かれた。出典:神智学協会(1875年創設)/神智学の七原理(『The Secret Doctrine』1888年)
現代スピリチュアル
本当の私は身体ではなく魂や意識だとされる。より高い自分という言い方も広く用いられ、語り手ごとに異なる。出典:系譜「引き寄せ・波動はどこから来たか」
臨死体験の研究
身体を外から見たという報告が、私と身体は別だという受け取りに結びつけられてきた。解釈は分かれている。出典:ムーディ『Life After Life』1975/AWARE研究
04

どこで割れているか

一つめ 変わらない何かが在るか

ヴェーダーンタ・ジャイナ教・プラトン・デカルトは、変わらない核があると答えます。仏教の主流と、ヒューム以降の近代哲学と、現代の神経科学は、それを認めません。インドの内部で、この線が正面からぶつかっています。仏教の無我は、隣にあった自己の教えへの応答として立てられました。

二つめ 私は一人で成り立つか、関係のなかにあるか

儒教は関係の結び目として私を定めます。一神教は、神に呼ばれる相手として立てます。どちらも、私だけを取り出して定義しません。一方でデカルト以降の近代哲学は、私だけを取り出せるところから始めます。ここが東西というより、近代とそれ以前の分かれ目になります。

三つめ 私を無くすことを目指す立場がある

禅は自己を忘れることを説き、スーフィズムは自我が消えて神だけが残る状態を説き、上座部はそもそも無いと説きます。三つとも別の道筋で、私を手放す方向を向いています。私を確立することを目指す立場と、正反対の向きです。

05

原典に降りる

仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。 道元『正法眼蔵』現成公案

私を突き詰めることと、私を手放すことが、ひと続きに置かれています。

知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。 『荘子』斉物論篇(胡蝶の夢)

どちらが本当かを決めないまま置かれます。原文はこのあと、これを物の移り変わりと呼んで結ばれます。

06

学校の勉強とのつながり

出典:文部科学省「中学校学習指導要領(平成29年告示)」第2章 社会、第3章 特別の教科 道徳。項目名は本文のとおり。つながりの説明は目安です。

07

出典の確認状況

出典をどこまで確かめたかを見る

どこまで確かめたかを隠さないことが、引用される条件だと考えています。

出典使った箇所状況
道元『正法眼蔵』現成公案01・03節原文を確認
『荘子』斉物論篇(胡蝶の夢・物化)01・03節原文を確認
イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』01節照会済
ウマースヴァーティ『タットヴァールタ・スートラ』01節照会済
『倶舎論』破我品に引かれた説01節照会済
世親『唯識三十頌』/護法釈『成唯識論』01節照会済
親鸞『教行信証』01節照会済
『グル・グラント・サーヒブ』01節照会済
クルアーン 51:5601節照会済
カバラー文献(魂の階梯)01節照会済
プラトン『パイドン』01節照会済
エピクロス『メノイケウス宛書簡』01節照会済
神智学協会(1875年創設)/七つの原理01節照会済
ムーディ『Life After Life』1975/AWARE研究01節照会済
『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』6章8節7(タット・トヴァム・アシ)01節原文を確認
『無我相経』相応部22.5901節原文を確認
世親『阿毘達磨倶舎論』破我品01節照会済
唯円編『歎異抄』第三条01節原文を確認
第三代カルマパ『了義大印祈願文』/増支部 AN 1.49〜52(心は光り輝いている)01節原文を確認
『論語』顔淵篇 第11章/『孟子』滕文公上(五倫)01節原文を確認
創世記/ミシュナ(200年頃)/バビロニア・タルムード01節照会済
『カトリック教会のカテキズム』362〜365・99001節原文を確認
アタナシオス/グレゴリオス・パラマス(神化)01節照会済
ガザーリー『宗教諸学の再興』(ファナー)01節照会済
デカルト『方法序説』第四部/『省察』第二省察01節原文を確認
スピノザ『エチカ』第二部 定理13/第三部 定理2 備考01節原文を確認
カント『純粋理性批判』B131〜132(超越論的統覚)01節原文を確認
ハイデガー『存在と時間』第12〜13節(世界内存在)01節照会済
サルトル『実存主義とは何か』1946年01節照会済
ユング『元型論』Ⅰ「集合的無意識の概念」(林道義訳・紀伊國屋書店)/フランクル『死と愛』第二章第一節「人生の意味」(霜山徳爾訳・みすず書房)01節章まで特定
チャーマーズ「意識の難問」1995年(『意識研究誌』2巻3号)01節掲載誌と年を確認
フツイマとカークパトリック『Evolution』第5版 2022年01節掲載誌・版元を確認
プランク共同研究『Planck 2018 results VI』2020年01節掲載誌・版元を確認
サクライとナポリターノ『Modern Quantum Mechanics』第3版 2020年 1章4節01節掲載誌・版元を確認
ラッセル『宗教は必要か』第4編「死後も生存するか」(大竹勝訳・荒地出版社)01節章まで特定
系譜「引き寄せ・波動はどこから来たか」(刊行年と版元をつけた一覧)01節系譜のページに集約
『ゾーハル』I 81a(ネフェシュ・ルアハ・ネシャマー)01節章節を特定
エピクテトス『語録』3巻1章39〜40節(私とはプロハイレシス)01節章節を特定
『自省録』01節章節を特定
『バガヴァッド・ギーター』01節章節を特定
世親『唯識三十頌』(玄奘訳)01節章節を特定
『荘子』斉物論篇(胡蝶の夢)01節章節を特定
『古事記』上巻01節章節を特定
柳田国男『先祖の話』1946年01節章節を特定
新約聖書01節章節を特定
カルヴァン『キリスト教綱要』1536年01節章節を特定
クライニー『アル・カーフィー』(10世紀)01節章節を特定
神智学の七原理(『The Secret Doctrine』1888年)01節章節を特定
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